もうたべられないよぉ

 すぴー。
 窓から溢れる昼下がりの光。薔薇の館に幸せそうな寝息が響く。
 ―――いけない、寝ちゃった。
 私、藤堂志摩子は朦朧とした意識のまま心のなかでつぶやいた。
 今日は薔薇の館に一番乗りで到着し、部屋の掃除を済ませた後、そのまま一人で誰かが来るのを待っていたのだが、二月とは思えない部屋の暖かさに気持ち良くなって、ついつい眠ってしまっていた。
 すぴー。
 寝起きで頭がぼんやりする。
 私は自らの寝息に耳を傾けながら、思考がはっきりするのを待った。
 ……自分の寝息?そんな馬鹿な。
 意識があるのに自分の寝息が聞こえるなんて、これはおかしい。オカルト?もしかして幽体離脱とか―――
「すぴー」
 恐る恐る顔を上げると、重ねた手のひらを枕代わりにして、すやすやと気持ち良さそうに眠る祐巳さんが居た。
 なるほど、私が寝てる間に祐巳さんが来て、同じように眠くなってそのまま、という事か。
 私の背中には脱いで洋服掛けに掛けておいたはずのスクールコートが掛けてあった。これはきっと祐巳さんが掛けてくれたのだろう。
 それにしても祐巳さん笑顔のまま眠ってる。なにか素敵な夢でも見てるのかしら。そんなふうに思わせるほど気持よさそうに眠っていた。
 しばらく祐巳さんの寝顔に見惚れていると、遠くのほうで扉の閉まる音がした。誰かが薔薇の館に入ってきたようだ。
 私はとっさに寝たふりをした。そんな事をする必要は全くなかったのだが、寝ぼけた思考がそうさせたのだろうか。
 足音が部屋の前で止まって、ビスケットのような扉がぎぎぃと音をたてて開く。
 一体誰だろう。うっすらと目を開けてその姿を確かめると、それは祐巳さんのお姉さま、紅薔薇のつぼみこと祥子さまだった。
 祥子さまは部屋に入るなり、ばったりと机に突っ伏している二人を見て目を見張った。ゆっくり近づいて顔を覗き込み、眠っていることを確認すると、ふふっと小さく笑った。
 祥子さまは自分のスクールコートをフックに掛けてから、祐巳さんのコートを手に取り背中に優しくかける。そしてそのまま肩に手を置いて、祐巳さんの寝顔を覗き込み、その幸せそうな顔を見て愛しそうに目を細めた。
 その様子はまるでドラマのワンシーンのようにとても美しい。
 祥子さまは祐巳さんの寝顔をそのままじーっと眺めていた。
 が、何を思ったか唐突に、祐巳さんの鼻をぷにっと摘んだ。途端、
「はぐっ……」
 一瞬、鼻呼吸が出来なくなった祐巳さんは顔をしかめて間抜けな悲鳴をあげた。
 それを見た祥子さまは、バッと自分の口を手で覆って肩を震わせながら笑い声を必死で殺した。
 一方、私は寝たふりをしている手前、肩を揺らすことすら許されず、腕に顔をうずめて必死で耐えた。
 まさか祥子さまともあろうお方が、こんなくだらないイタズラを……!
 確かに祐巳さんの寝顔は正常な思考を妨げるほどの可愛さであった。
 イタズラをされた当の祐巳さんは、まるで何事も無かったかのように、ぐっすりと眠ったままだった。
 そんなことをしていると、また誰かが薔薇の館に入って来る音がした。
 祥子さまはその気配を察知すると、それはもう恐ろしい早業で、いつもの席に素早く座って鞄の中から文庫本を出し、まるでしばらく前から読んでますと言わんがばかりにそれに目を落とした。
 私は足音に耳を澄ます。これは、この足音は……。
 がちゃっとドアが開く。
 部屋に入ってきたのは私の推測通りの人、私のお姉さま、佐藤聖さまだった。
「おや?」
 お姉さまは少し驚いた顔をして、春だねーなんて呟いて、私と祐巳さんの寝顔を交互に楽しみながら悦に浸っていた。と、しばらくそうしていたのだが、
「気持ち良さそうに寝てる祐巳ちゃんを見ているといたずらしたくなっちゃう」
 そう言って、祐巳さんに狙いを定め、悪い魔女のように手をわきわきさせて近寄った。お姉さまも祐巳さんの寝顔に魅せられてしまったらしい。しかし、
「やめてください、祐巳はオモチャじゃないんですから」
 すかさず、ピシっと言い放つ祥子さま。
「えー」
 と不満そうな声を上げるお姉さま以上に、
(えぇぇぇぇ!)
 私は心の中で叫んだ。
「祐巳にといわず、ご自分の妹にされたらよろしいのでは」
「ちぇー」
 釘を刺されたお姉さまは、祐巳さんを諦めて私の横へすとんと腰を下ろした。
(うわ、鼻を摘まれたりしたらどうしよう)
 そう思った瞬間、頭にふわっとした感触が。
 お姉さまが私の頭を撫でていた。
 お姉さまの温かい手の感触。やさしく、やわらかく。
 私は思わず涙が出そうになったので狸寝入りをここで打ち切ることにした。
 寝たふりだったのがばれないようにまるで寝起きのような素振りでまぶたをゆっくり開く。
「おはよう。気持よさそうに寝ていたね」
 お姉さまの笑顔が私の涙できらきらとして見えた。
「あ、はい……すみません、気持良くてつい」
 目をこする振りをして涙を拭う。
 二月の温かな陽はゆっくりと傾いていった。

 一方、祥子さまは祐巳さんの寝顔を覗いた後、眉間にしわを寄せた。
「すぴー」
 嗚呼、祐巳さん、口元からよだれが……。

おしまい。

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